ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していました。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増え、社会主義勢力の影響が浸透していました。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じる事を怠っていました。そのため、1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していました。
日露戦争での苦戦が続く1905年には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出しました(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市ででソヴィエト(労兵協議会)が結成されました。これが後の、ソビエト連邦の名前の由来ですね。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキンのウクライナ人水兵らが反乱を起こしましたが、他艦により鎮圧されてしまいました。同艦に呼応した戦艦ギェオールギイ・ポビェドノースィェツは、指揮官により座礁させられました。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧されました。
これに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功しました。
その後ドゥーマが開設されると、首相ストルイピンによる改革が図られましたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化することはなく、さらにストルイピンの暗殺や第一次世界大戦への参戦で改革の動きそのものが停滞してしまいました。
一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いからウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していましたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開して、第一次世界大戦においてドイツ軍に対する苦戦が伝えられるとその党勢を拡大していきました。
二月革命
そして、二月革命が起こります。
二月革命は食糧不足を原因に市民が帝政への不満の声を上げた散発的な抗議デモから始まりました。市民の不満はロシアの第一次世界大戦への参戦継続にも向けられました。抗議デモが数日の内にペトログラード全域にまで拡大をとげると、様々な革命的政党が活動を始めました。三月前半には首都の連隊に所属する多くの兵士も反乱を起こし、多くの市民を巻き込んで抗議運動は猛烈なものに発展しました。これらの動きを見た政府や軍首脳は専制の継続を無理と判断し、ニコライ2世に退位を勧告し300年におよぶロマノフ朝は幕を閉じることになりました。
二月革命から十月革命の間に、多数の無政府主義者および共産主義革命論者は革命の拡大を試みました。7月にペトログラードのボリシェヴィキは労働者階級および無政府主義者と共同して市民の蜂起を試みましたが、この動きは臨時政府により鎮圧されました。
臨時政府の成立と二重権力状態
二月革命後にドゥーマ議員、特にカデットを中心として臨時政府が発足しました。その一方で労働者や兵士の意見を代表するソヴィエト(この頃はメンシェヴィキ、社会革命党が中心であった)も発足していて、この両権力が連携して政権運営がなされました。
社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、従来の英・仏・露による同盟関係を尊重し、対ドイツ戦を継続する姿勢をとっていきました。これにはソヴィエトも当初は同調していましたが、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車に乗り帰国すると、"平和とパンの要求"(四月テーゼ)を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判しました。しかしこの時点ではまだ、ボリシェヴィキはソヴィエトにおける少数派にとどまっていました。
七月に入り臨時政府内部の対立が顕在化してきました。軍内部の革命勢力の一掃を求める最高司令官のコルニーロフ将軍と彼を任命したケレンスキー首相の対立が深まり、コルニーロフは反臨時政府のクーデタを引き起しました。ケレンスキーは赤衛軍の助けを借りてこれを鎮圧しましたが、その中心となったボリシェヴィキはソヴィエト内での権威を高め、全ての権力をソヴィエトに集約すべきという見解も一般的になっていきました。
十月革命(十一月革命)
十月革命は二月革命ほど散発的ではなく、慎重な計画の立案および各勢力活動の統合の結果発生しました。1917年11月7日(ユリウス暦10月25日)にボリシェヴィキ指導者ウラジーミル・レーニンはケレンスキー臨時政府に代わって、ほぼ流血無く権力を掌握しました。
革命後の展開と影響
ブレスト・リトフスク条約締結をきっかけに南ロシア、シベリアなどの都市で白軍が蜂起しボリシェヴィキ政権に反旗を翻しました。列強諸国も黒海沿岸への部隊派遣、ポーランド・ソビエト戦争、シベリア出兵などを通じて干渉を加え、それと同時にウクライナではアナーキストや民族主義者による独立の動きが見られ、白軍を撃ち破り、ボリシェヴィキを凌駕しました。しかし自力にまさり優秀な指揮官を擁する赤軍は各地で白軍を破り、これをみた列強諸国は部隊を撤退させました。1922年ボリシェヴィキは全国ソビエト大会で国家樹立を宣言しソビエト連邦が成立しました。
その後、1991年12月にソビエト連邦が崩壊するまで、この体制は続いていきます。
今日のクマ関連のニュースです。
クマよけの鈴 子ども守って 出没増加目立つ丹南地域 越前市教委が3211人に配布
クマに襲われ重傷の男性助けよう リンゴ収穫、販売へ
長野・軽井沢町 「ジゴロー」が捕獲される
今日は何の日?
今日はレントゲンの日です。
1895年11月8日にドイツの物理学者レントゲンが発見したX線は、身体を傷つけることなく身体の中を見ることができるというものでした。X線は上や服などは透過し、骨などは透過しにくいため、レントゲン写真が生まれました。
世界都市計画の日です。
アルゼンチンの都市計画学者・パオレラ教授が、1949年に提唱しました。日本では都市計画協会が1965年から実施しています。
いい歯の日です。
日本歯科医師会が制定しました。「いい(11)は(8)」の語呂合せです。
刃物の日です。
岐阜県関市・岐阜県関刃物産業連合会・新潟三条庖丁連・越前打破物協同組合・東京刃物工業協同組合・京都利器工具組合・高知土佐山田商工会・島根県吉田村・堺刃物商工業協同組合連合会が制定しました。「いい(11)は(8)」の語呂合せと、ふいご祭が行われる日であることからつけられましたが、何か怖い。
八ヶ岳の日です。
八ヶ岳を愛する人々が結成した「八ヶ岳の日制定準備委員会」が制定しました。「いい(11)やつ(8)」の語呂合せです。久々に、微妙な語呂合わせです。
誕生花:
ウメモドキ 花言葉:明朗
センノウ 花言葉:機転・機智
ヒイラギ 花言葉:機智・剛直・先見・用心
左からウメモドキ、センノウ、ヒイラギです。
